祝祭の本質

一般的に祭りと言われるものは、厳かに行われる祭りと乱痴気騒ぎのような祭りがある。さらに、ひとつの祭りの中にも、静の部分と動の部分がある。静の部分は、ごく少数のものが執り行う儀式を多数が見守るという構図を取り、道の部分は、全員が多少なりとも祭りの主役になって、その動きの中に身を投げ込むという形を取る。祭りには、参加する部分と傍観する部分があると言ってもよい。

ところで、どんな祝祭にも本来この二つの側面が程よくはいごうされているものだ。式典や典礼と、宴会や舞踏会の両方がお互いに補完しあって、全体を構成しているのが普通である。カーニヴァルのように表面的には、ばか騒ぎにみえてしまうものでも、全体としてみれば、ミサによってはじまりを告げたり、仰々しい演説で幕が開いたりする。このように、祭りには、静と動の交代がある。それは我々の生活時間が日常と非日常、柳田國男のいうハレとケに分けられていることとよく似ている。

ところが、先進国に住むわれわれが今生きている時代は、みな飽食の時代と言われ、毎日がまるで、祭りである。かつて、クリスマスやカーニヴァルにしか口にできなかったような食事を、ほとんど毎日当たり前のように食べている。断食がリアリティーをもつのは、修行僧かダイエットに命をかける人にとってくらいだろう。さらにあちこちの巨大な会場では、地方の片隅にひっそりと残る伝統的な祝祭などかすんでしまいしょうなイベントが、毎日のように繰り返されている。テレビを見れば、カーニヴァル顔負けの衣装が舞い、踊り、歌っている。我々は、祝祭の日常化というべき事態の中で生きてるのだ。

祭りの日常化がもたらすもの、第一にそれは、メリハリの時間の消滅である。祭りの根源的な構造は、時の更新、時間の刷新にあった。古い時が死に、新しい時が誕生するこにあった。その意味で祭りは人間的な時間構造を構成するものだろう。毎日が祭りという事態は、こうした祭りの構造を根底から覆してしまう。もはや葬り去る時もなければ、蘇生する時もない、唯あるのは、日常という平板で切れ目のない時間だけである。

第二に、それは、祭りを日常生活のほうに引き寄せてしまうことを意味する。祭りがわれわれを日常から引きはがし、非日常へと拉致するのではなく、日常空間のなかにこじんまりと飼いならしてしまうのだ。普段着で祭りを「気軽に」楽しむことができるし、ラーメンをすすりながら、テレビの中のどんちゃん騒ぎを見ることも可能だ。自分の日常生活の構造は、祭りによって一瞬たりとも変化をこうむることはないのである。

このように、今日の祭りを取り巻く環境は、伝統的な祭りをいよいよ衰退させる方向に動いている。祭りは見世物化されメディア化されて、視覚の対象としては立派になっていくとしても、参加することからますます人々を遠ざける結果になっている。身体もろもろ参加し、ひとつになり、陶酔し、激しく逸脱するという祭りの空間は、もはや現実のものでは、なくなりつつある。祝祭、祭りは、ショーとして、あるいはビジネスとしてコマーシャリズムの中に囲い込まれる。テレビ画面の中に押し込まれて、手軽に「消費」される。その結果、われわれの身体はいつまでも祭りの圏外に取り残されたままだ。身体参加経験のない祝祭・祭り、これは祭りのフォークロアが持っていた性へのかかわりも否定する。

未来の祭りは、すべてが日常生活の中に取り込まれて馴化された祭りか、さもなければ、バーチャルな空間の中で展開する、視覚と聴覚だけで、完結してしまう祭りのいずれなのかだろうか?

 

 

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