イギリスの祝祭

イギリスの消える祝祭と残る祝祭

イギリスでも伝統的な祝祭の多くは廃れていく傾向gあるが、その際に「消える祝祭と残る祝祭」を概観すると、ある一定の傾向が認められる。たとえば、田舎や地方の祝祭のなかで、盛んに行われていたキツネ狩りや野兎狩りは、現在から見ると血なまぐさいゲームなので、特に都市部に住む人々から残酷であると非難され、ほとんどは超滅しつつある。また、ランカシャの黒騎士祭りは、15世紀に悪行を重ねたアッシュントン卿を罵倒するための祝祭とされているが、今日に見立てた人形が馬から引きずりおろされ、いしや泥を投げつけられ、バラバラになるまで銃で何度も撃たれるという残酷なものだった。したがって、これも現在では、もはや過去の祭りとなっている。

ところが、長い歴史を誇るイギリスには、伝統を大切に継承する側面があり、たとえば、「ダンモウのベーコン賞」という微笑ましい祝祭は、600年の歴史を持ち、現在も続いている。

その例をあげる。うるう年の6月には、エセックス州のダンモウで仲がよいことを証明できた夫婦に、ベーコンを与える審判の行事が今も開かれている。最初のベーコンは、1445年に授与されたという記録があるが、14世紀の作家ウィリアム・ラングランドやジェフリー・チョーサーもこの審判に言及していることから、もっと前から続いていた行事であることが分かる。元来、この祝祭のルーツは結婚してから1年と1日の間に、いちども結婚を後悔しなかった夫がダンモウの修道院に行って、ベーコン一切れを要求するというものであった。

夫は、小修道院長、修道士、地元の人々の前で2つの鋭い石の上にひざまずいて宣誓した上、証言をしなければいけない。この要求が認められると、修道士や村の人々に担がれて村中を練り歩く。その後、ベーコンが授与され家に送り届けられた。宗教改革でいったん中断したが、18世紀に入って、復活をした、このときには、夫だけでなく、夫婦2人にベーコンが送られた。なお陪審員には5人の未婚女性がじぇらばれて、判定を行っていたが、やがて、独身の男女6人ずつが陪審員に招かれるようになった。今では、裁判官、夫婦の弁護人、陪審員、証人からなる法廷のような裁判のような形うぃを取り、観客も傍聴人として野次を楽しむ行事となっている。

このようにいまでも地方には、昔ながらの様々な祝祭が受け継がれているし、本来の祝祭の意味や精神は忘れ去られても、日常的にな行事のなかにその名残りがとくに食文化の習慣となって生き続けている。たとえば、クリスマスには、ごちそうを、聖金曜日には、菓子パンのホット・クロス・パンを、懺悔の火曜日には、パンケーキを、そして、復活祭には卵をかたどったチョコレートを食べる。

場所によっては、懺悔の火曜日のパンケーキはたべるだけでは、済まない。祭日を楽しむためにいろいろなゲームや娯楽も考え出された。女性がフライパンに入った焼き立てのパンケーキをひっくり返しながら走るパンケーキ競争が開かれる。また、丘の上から転がる大きなチーズを追いかけて、奪い合う年中行事もあるが、ルールらしいものがほとんどなく、何百人でも参加でき、挙句の果てには、乱闘騒ぎになる。こういったゲームは、地方では、今なお、人々の間でたのしまれ、テレビで報道するのに、恰好の話題を提供している。

 

イギリスの歴史と祝祭

日本語で「イギリス」と呼んでいる国の正式名称は、「グレートブリテン・北アイルランド連合王国」であり、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの4つの地域から成り立っています。現在のイギリスで大多数を占めているアングロサクソン系の人々の祖先は、大ブリテン島に元から暮らしていた民族ではない。彼らは、紀元後5~7世紀頃に、ヨーロッパ大陸から移住してきたよそ者であり、その前に暮らしていたのは、ピクト人とブリトン人というケルト民族であった。アングロサクソン人が大陸から侵入してきたときに、ケルト人たちは、北部のスコットランドや西部のウェールズへ逃れて行った。

イギリスは、キリスト教国であり。キリスト教の歴によれば、年中毎日何らかの聖者の祝日となっているが、祝祭のなかには、キリスト教以前の古代の異教の儀式から始まったと思われるものも多い。たとえば、、ケルトの残照文化と考えられるハロウィンやメーデーなどの祝祭があげられる。特に聖霊の復活の日とされるハロウィンでは、イギリスでは廃れたが、アメリカ移民によって、継承されて、近年、イギリスへが逆輸入されて復活するという遍歴をたどっている。

また、夏至祭も、ほんらいは太陽信仰に基づく異教の祭りであり、キリスト教がそれを取り入れてからは、聖ヨハネの生誕の祝日となった。毎年、夏至前夜には、イングランド南部のソールズベリーにある先史時代に造られたと考えられるストーンヘンジに、各地から大勢集まってきて、右の祭壇の上に太陽が昇るのを見る。日本でもお馴染みのヴァレンタインデーは、殉教した聖人の名にちなんでいるが、起源は古代ローマの豊穣信仰にさかのぼるとされている。

597年は、イギリスの祝祭にとっての重要な年である。このとき、ローマ教皇の命により、聖アウグスチヌスがイギリスにキリスト教を伝道した。教会はこれまで存在していた異教の慣習にキリスト教的な意味を与え、排除しない政策をとった。その後、9世紀ごろからは、デーン人がイングランドを頻繁に襲い、11世紀には一時、彼らに支配された。さらに1066年には、イングランドはノルマン人により征服されてた。このようにイギリスは何度も外的に侵略されたが、各地域で行われていた祝祭はそれぞれの地域で発展を続けた。さまざまな政治的混乱のなかでも民族的安定があったためだろう。

したがって、現在残っている祝祭日は、何らかの形でキリスト教とかかわっているものがほとんどであるが、時代の変遷とともに変容しつつ、ときには、衰退したり、、また復活をしたりしながら今にいたっている。とくに16~17世紀初期の宗教改革の時代には、ローマ教皇を最高権威とするカトリックのほとんどの祝祭は迷信的で堕落したものであるとして、清教徒やプロテスタントによって禁止された。1644年には、法定によりメーデーやクリスマスを祝うことまで廃止されてしまった。しかし、1660年の王政復古によって、かつての慣習の多くがイギリスにもどってきた。それでも、清教徒の伝統は継承され、やがて18世紀になると、イギリスの経済発展に欠かせない勤勉さが重要視される時代がくる。それにともなって、民衆の祭りや娯楽が統制されるようになった。

さらに産業革命によって、工業化が進むと、農村文化はますます衰退し、農業の季節による祭りの習俗が、増大する都会の労働者にはあまり関係のないものになっていった。ヴィクトリア朝になり体裁を重んじる風潮が強まると、荒っぽい行事は、好まれなくなり、都会では粗野な習俗は排除して洗練されたものを求めるようになった。こうして、資本主義に適合すべく祭りの文化は再編成されていく。ヴァレンタイン・カードやクリスマス・カードが商業化され、クリスマス・ツリーが外国からイギリスに導入されたのもこの時代である。第一次世界大戦のころは、戦時体制の強化によって、18世紀に存在した娯楽としての祭りの多くが行われなくなったが、それでも地方には、昔ながらの習慣や祭りが残存した。