ヨーロッパ祝祭の原点・由来・起源


ヨーロッパの祝祭の起源や由来として、キリスト教の祝祭が広がる以前の民間伝承や土着信仰に対する理解が欠かせない。

古代より、人間を取り巻く世界は、神と悪魔によって支配され、生と死、幸福と不幸は、それらによって左右されていたと考えられていた。ケルト民族の文化を継承しているハロウィン仮装にみられる象徴的な神、聖霊、祖霊、善霊または悪魔、魔女、悪霊、妖怪、幽鬼、悪鬼などの神秘的なものと魔性の世界に属する概念が登場している。そのために、長い長い経験のもとに祝祭・祭事を催すことによって、安全を祈り、厄災から身を守ったのである。農耕社会の自然のリズムに合わせた儀礼はすべて、そうした祈りの祭事祝祭であり、ある特定の日に、定められた行事を行うことによって、初めて効果が生まれたのである。

時代とともに、キリスト教が伝えられ、唯一の超越神をいただき、絶対主義を貫こうとするキリスト教にとって、それまで崇められ、恐れられてきた神や悪魔はすべて邪悪なものとして排除しなければならなかったのである。こうして古い宗教は異教とみなされ、神々の全てが悪魔として激しく排斥されるようになったのである。しかし、キリスト教の異教との闘いは想像以上に困難であり、共存する時代が長く続いた。そこで、教皇グレゴリウス1世(540年~604年)は、古い宗教の祭事・祝祭が行われた同じ場所に教会を建てる命令を出すことによって、改宗を容易にしようと考えた。当初、教会の態度は、寛容であり、グレゴリウス1世は、「布教地における慣習順応」を採用して、「異教徒の祝祭を、キリスト教の祝祭へと変えることを急いではいけない。それどころか、多くの点で異教徒の祭事を模倣しなければならない」と布告し、古い宗教の祝祭をキリスト教の中に取り入れたのである。

やがて、1300年を境として「魔女裁判」に見られる狂言的な異教徒弾圧の時代が訪れた。その時期は、ちょうどヒューマニズムを唱えるルネサンス運動の起きたときでもあったが、古い宗教の神々を排斥する点ではキリスト教の立場と変わることはなかった。こうして、中世末期から近代にかけて、民間信仰は息絶え絶えになり、いわゆる神々の黄昏が訪れてたのである。

しかし、これらの運動は一般に言われるように民間信仰の決定的な消滅につながらなかった。すでに冬の行事のように、たとえキリスト教の祝祭のなかに組み込まれたとはいえ、祖先の育んだ信仰が今も脈々と生き続けていることがわかる。とくに、都市と隔離された文化の後進地域であった農村部、また山岳地帯では、農民は厳しく規制された共同体のなかで生活をしなければならなかったし、自然環境が共同体という組織を必要としたのである。だからルネサンスによる個人主義の発達も彼らにとって、有害ではあってもおよそ関係のないことで、最大の関心事は、豊かな収穫であり、そのためには昔から続けられてきた農作業の節目に行われた祭事をすることであった。農民の古くからの習俗が守られさえすれば、彼らの信じる神々がキリスト教に置き換えられたとしてもあまり問題にはならなかった。

こうして、現在の年中行事のほとんどは、キリスト教の歴によって運ばれているが、その起源がほとんど民間の祝祭につながることを考えると、キリストの名目だけがのっかているに過ぎないと言える。農民は、教会に詣で、祭りの主役がキリスト教に仕える聖職者になったと言え、昔と同じように仮面をつけ、樹皮やわらで仮装をして、木を立て、踊りあかし、丸太を引き、冬を埋葬し、あるいは、処刑する習慣が続けられてきたのである。

さらに社会構成の面からも民間信仰が生き続けたことがうなづけるだろう。当時、人口の8割近くが文字も読めない農民であった。ヨーロッパ文化の基礎を支えたキリスト教もルネサンス運動も、社会の表層から生まれ、伝えられてきたものであり、底辺に生きる一般農民にとっては、理解できない無縁なことだった。この高度な、人文主義が農村社会に浸透するには、長い時間と努力が必要であった。

さらに、ナチズムをはじめ、政治的あるいは非政治的にも、民族意識の高揚のために、また、教会に対抗するために古い習俗が利用されたことも、民俗文化を消滅から救う結果となった。

古い土着信仰や民間信仰の祝祭の名残りは、ハロウィンの祭りに見られる。仮面や仮装の意味合いはほとんどなく、ただの商業的な祝祭となっているが、不可思議な神秘的な祭りとして、非常に参考になる。現代の秋のハロウィンシーズに見られるように、神、聖霊、祖霊、善霊または悪魔、魔女、悪霊、妖怪、ゾンビなど様々な種類のハロウィン衣装を見ると、古代ヨーロッパの祝祭の比較や参考になる。なによりも時間の感覚が統合されて、現在と過去が一緒に混在する感覚になり、陰と陽、現在と過去、新と古などの概念を持つ祝祭になっていて面白い。祝祭の起源や由来を研究する上で理解に役立つものになる。是非参考にされると良いだろう。また、スイスやティロルなどのアルプス地方の辺境地を訪ねると、古代から継承されてきた仮面の習俗が今でもみられる。ケルト民族の末裔が住んでいて、先祖霊や豊穣儀礼と密接に結びついていたのである。

イタリアの祝祭

お馴染みの長靴型の半島と地中海に浮かぶ島々からなるイタリアは、中世やルネサンスの栄華をしのぶ壮麗な建築や絵画や彫刻など情感豊かな文学や音楽の珠玉な作品
は、現代の私たちに大きく影響を与えて、楽しませてくれる。さらにイタリア人の陽気な気質がさらに繰り広げられる祭りが個性豊かで魅力的なものにしているのは間違いない。

人口の9割近くがカトリックへの信仰を維持しているイタリアでは、キリストや聖母マリア、あるいはさまざまな聖人たちにちなんだ祝日の並ぶ教会が1年のリズムを刻んでいる。

農村地域では、農業を限定する自然のサイクルにそった祭りが多く、また、都市部の祝祭では、歴史や伝統を意識した市民的な性格を持つ者が多い。

山間の街であるアッシジが本格的な春を迎えるころ、聖フランチェスコゆかりの都市では、毎年「春の女王」を選ぶ「5月祭」が開催される。長く暗く厳しい冬の後に訪れる生命に満ちた春を祝福して、1年の豊かな実りを感謝祈念するこうした祭りは、アッシジの以外のたの地域でも見ることが可能である。豊穣の象徴である5月柱を立てる祝祭は、ヨーロッパ各地で広くみられる有名なものだが、イタリアでも地域ごとにさまざまな種類をともなって、ロンバルディア州からシチリア州にいたる山岳地帯に多く広まっている。また、地中海に浮かぶ、小島ファビニャーナでは、5月から6月にかけてマグロを儀式的に解体する「マグロ大漁祭」が開催され、豊漁と安全が祈願される。

秋では、エミリア・ロマーニア州のトリュフ祭やオーストリア国境にほど近いメラーノのブドウ祭りのように、大地の豊かな恵みを感謝して祝う祭りが各地で行われる。祭りのときは、家々や街路にブドウの房や枝があふれ、その中をロザリオの聖母の行列や寓話的な山車の後進が通り、夜にはイルミネーションが光り輝くきれいな祝祭になる。

また、1934年にはじめられたローマ北方のソリアーノ・ネル・チミーーノの栗祭りでは、広場にしつらえれれた巨大なフライパンで焼かれた栗が観光客にふるまわれる。そもそもこの栗はローマ教皇庁に納められていたが、村と城塞を狙ったナルディーニ伯の侵略を村人が阻止してという功績実績に対して、当時の教皇インノケンティウス8世がクリの収穫権利を譲りわたしたのが由来である。この史実にちなんで、栗祭りでは伝統的な衣装に身をつつんで仮装した時代行列が再現されている、馬上槍試合や弓射合戦も行われるようになっている。

 

一方、イタリア南部のモリーゼ州の山村イェルジでは、春秋の季節に小麦祭りが開催される。1805年にこの地域を襲った地震から守ってくれたという感謝で、祭りは今では、聖アンナにささげられ、数多くの麦穂やわらで飾り付けられた人形が村中を練り歩く。この祭りは、もとはキリスト教以前の大地や収穫の神々への信仰と関連があるとされており、土着の信仰が吸収された一例である。

こうして、春や秋には、農漁業に関係の深い祭りが多くみられるのに対して、夏には、歴史的なサッカーや競馬、馬上槍試合など都市国家の伝統を継承する競技的な祭りが観衆を熱狂させる。

また、ロウソクや電飾の光が夕闇の中に街並みを浮かびあがらせるピサやルッカの幻想的な「光の祭典」も有名で、欠かすことができない夏の風物詩である。さらにヴェローナやローマでは、野外の古代遺跡を舞台にオペラが上演され、ヴェネチアでは隔年でビエンナーレ(2年に1回開かれる美術展覧会)が開催されている。こうした新しいイベントも今では、夏を彩る新しい恒例行事となっている。

 

ロシアの祝祭

西欧では、キリスト教の受容にともない、土着宗教、あるいは、異教の習慣や儀礼は、たちまちカトリックの祝祭に取り込まれていった。東方正教を中心としたロシアでも多かれ少なかれ、似たような状況が生じた。それに加え、ソビエト政権は宗教を弾圧し、因習を否定した。その一環として、共産党はキリスト教の祭日をほぼ、毎週の記念日(炭坑の日、戦車兵の日、教員の日)で置き換えた。かつて教会が異教に対してとった方法である。さらに党は、「赤い祭り」を組織し、レーニンの誕生日を祝い、メーデーを大々的に展開した。こうして、伝統的な祭りの起源や儀礼の意味はますます霧のかなたへ忘れ去られてゆき、休日はウォッカの日々となっていく。

ロシアは祭日の多い国である。帝政ロシア時代には、キリスト教関連の祭日に「皇帝の日」などの世俗的な祝日が加わり、祝祭日が年間の50日を超える地方もあったという。キリスト教関連の祭日だけで30日ほどになる。祭りの種類によっては、期間も長く、仕事に影響が及んでも不思議はないものもある。事実、ソビエト時代には伝統的祭りの打倒を叫ぶスローガンが掲げられた。「集団化にブレーキをかける」祭りの有害さが説かれ、「失われた驚くべき労働日数」が指摘され、教会関連の祭りは、「反動的」だとやり玉に挙げられた。

こうした批判もある。農民は祭りとなると正体をなくすまで酔いつぶれ、2日の祭りは実質3日の休業となったという。村のお祭り騒ぎには、ウォッカが欠かせなかった。

しかしながら、次々と変わる祝祭日を後目に、酒すなわちウォッカだけは、不偏不党の真理を貫いているとみることもできる。ウォッカなくして祭りなし。ロシア人にとっては、ウォッカは「世界を10月革命で100回ゆさぶろうと」びくともしない最高の気晴らしである。このことは建国のあらましにもある。日本の古事記にあたる「原書年代記」をひもとけば、キエフ・ロシアのウラジミール大公が「ルーシの民は酒なしでは済まされない」といって、ユダヤ教をしりぞけ、キリスト教を国教としたとなる。祭り火酒ウォッカの関係は、宿命である。この宿命は、文化的にも十分根拠がある。